| 約110万年前 |
アジア最古の人類が住んでいたジャワ島からわずか3キロしか離れていないバリ島にもこの頃、人類が存在していたことが十分考えられる。 |
紀元前
300年頃 |
東南アジアで発達していた青銅器文化(ドンソン文化)がバリ島にも影響を与え、稲作りの技術も伝わった。 |
| 5世紀頃 |
インドとの交易により、ジャワでヒンドゥー教が伝わると、インド文化もわずかながらバリにも伝えられた。 |
| 9世紀末 |
バリ最古の碑文がサンスクリット系の文字で残されていたことが分かっている。 |
| 11世紀 |
東ジャワとバリ島との交流が活発になった時代。
バリの王ダルマ・ウダヤナが東ジャワの王女マヘンドラダッタと結婚し、王子エルランガが後に、東ジャワのスリウイジャヤの王女と結婚し婿養子に入る。エルランガは東ジャワのみならずバリをも支配し、エルランガ王国を作り上げた。父ダルマ・ウダヤナの死後は東ジャワに移り住んで王国を築き、バリ島は弟のアナック・ウンスに任せた。この兄弟関係により、ジャワとバリの交流が一層進んだ。
この頃から、碑文はジャワ語で書かれ、ジャワ暦が取り入れらるようになる。貴族間ではジャワ古語が話されるようになった。 |
11世紀
エルランガ死去後 |
バリは新たな東ジャワの王クルタネガラに支配される。 |
| 1292年 |
クルタネガラが殺害されてからバリ島は自由になったが、それも束の間だった。 |
| 1343年 |
ジャワ最大のマジャパヒト王国最後の将軍ガジャ・マダとの戦いに敗れ、再び支配される。
400年近く続いたバリ人王朝の時代は幕を閉じることになった。 |
| 16世紀 |
マジャパヒト王国がジャワ全土に勢力を伸ばしていたイスラムに滅ぼされる。
この時、マジャパヒト王国に仕えていた多くの者がバリ島に逃れ、クルンクンの南にゲルゲル王朝を興し、さまざまな芸術の基盤を作った。
ゲルゲル王朝は芸術の中心地となり、芸術全盛期を迎え、バリ島全土に広がる勢いを見せた。 |
| 1597年 |
3隻のオランダ船が初めてバリに入港。
スペイン、ポルトガルもこれに続いたが、特にオランダはジャカルタ制圧後バリに乗り込んできた。 |
| 1920年頃 |
オランダ統治下になる。
ヨーロッパの芸術家が次々と訪れ、バリの芸術が見出されるようになった。かつての独自の宗教、バリヒンドゥーを生んだ時と同様に、芸術もヨーロッパ文化と融合し、独自の芸術として結晶していき、バリのルネッサンスといった様相を呈した。 |
1945年
8月17日 |
スカルノ大統領率いる共和国政府の独立宣言 |
| 1950年 |
バリ島も共和国政府に参加して、共和国の一員となる。 |
1958年
8月14日 |
バリは東ヌサトゥンガラとともに第一級行政区となり、州都はシガラジャに定められた。 |
| 1960年 |
州都を現在のデンパサールに移す。
この頃から、独自の芸術、文化を最大の魅力として知名度を高めていくことになる。 |
| 1965年 |
クーデターでスカルノ政権が崩壊し、混乱を制圧したスハルトが第2代大統領に就任。 |
| 1998年 |
スハルト大統領が民主化運動の暴動で辞任。30年間以上も続いた独裁政権が終わった。ハビビ副大統領が大統領に就任。 |
| 1999年 |
国内各地で独立機運が高まる中、スハルトから政権を受け継いだハビビ大統領が閣議で東ティモールの独立を容認。国政の大きな変化が続いた。
同年、総選挙ではスカルノ大統領を父に持つメガワティ・スカルノ・プトゥリ氏率いる反スハルト派の闘争民主党が第一党に大躍進。ワヒド政権の誕生。
同年10月の国民協議会はイスラム組織ナフダトール・ウラマのワヒド氏を選出し、副大統領にはメガワティ氏が指名された。 |
| 2001年7月 |
ハビビ大統領が罷免され、メガワティ副大統領が大統領に就任。 |
| 2004年4月 |
総選挙で、スハルト旧政権時代の与党ゴルカル党が第一党に返り咲き。不安定な政情の動きに注目が集まっている。 |
| 2004年10月 |
大統領選挙。
ユドヨノ氏が当選し、大統領に就任した。 |
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